梶取弘昌氏(武蔵高等学校中学校前校長)に聞く 「目指したい20年後の教育」ARTICLE

第1回:「短期促成栽培」型ではない、これからの教育とは
第2回:「英語が話せる=グローバルに対応」ではない
第3回:非認知能力を育てるハウツー本には意味がない?
第4回:子どもを見守り、気付いていない長所を褒め、伸ばす

第1回:「短期促成栽培」型ではない、これからの教育とは

「何をする」か決められない子どもたち、教育にも要因

ダヴィンチ☆マスターズ(以下、──)
梶取先生が学び、教鞭を取ってきた武蔵高等学校中学校は子どもたちの自主性を育む校風で知られています。

梶取弘昌氏(以下、敬称略)
建学の精神『武蔵の三理想』では「東西文化融合のわが民族理想を遂行し得べき人物」「世界に雄飛するにたえる人物」「自ら調べ自ら考える力ある人物」とありますが、私自身、教育とは学生時代にとどまらず、社会人になってからの人生を、自立して生きていく力を育てるものだと考えています。

──今は情報過多の傾向からか、親が先回りして与えすぎ、子どもたちが「自分で決めて行動する」力が育ちにくいように思えます。
積極性を高めるために、親はどうしたらいいのでしょうか?
特に母親は、口を出し過ぎ、甘やかしすぎなのでしょうか。

梶取
長い時間を共に過ごすことの多いお母さんたちが、子どもに細々(こまごま)と口を出してしまうのはある程度、仕方がありません。
私のような年長者でも、家に帰ればよく妻に叱られます(笑)。
家庭・社会生活を送るうえで妻から夫へ、母から子へと細かく指示をする機会はあるものです。

ただ大人同士ならそれを「受け流す」こともできますが、それは力関係が対等だからです。
親子となると、食事の世話から日常の世話、金銭的援助など、子どもは親の力がなければ生きていけないので、子どもが親に依存するのは当然のこと。

特に小さい頃は、母親にべったりになる家庭も多いでしょう。
でも私は、それを悪いことだと思いませんし、むしろ思い切り甘えさせてあげたほうがいい。
一人前な口をきいても、まだまだ子ども。十分な愛情を受けることほど、教育において重要なことはないんですよ。

──母親の過干渉で子どもを委縮させることにはなりませんか。

梶取
お母様たちが自分の子どもが気になるのは当たり前のことではないでしょうか。
むしろ、子どもたちから「これをやりたい」という言葉や感情が出てきにくいのは、家庭の問題というよりは社会の課題。
子どもたちに対して「あれをしなさい」「これをしなさい」という教育上の指導が多すぎて、「お腹がいっぱい」の状態なのです。

──確かに今の子どもたちは英語だ、プログラミングだと「やらなければならないこと」を与えられ過ぎているかもしれません。

梶取
今の教育の問題というのは、大人が仕切り過ぎていることでしょう。塾も学校も、「これをやったらどうか」と子にも親にも過剰なほど提案する。

そもそも教員は基本的に子どもが好きで教えるのが好きな人が多いので、教え過ぎてしまう傾向があります。
国が関わっている日本の学習指導要領にしても、どうもやり過ぎ・お節介傾向になってしまう要因となっています。

それでいて、国家予算における日本の教育費はとても低い。
先進国の中で、ほぼ最低レベルといえ、教育に十分なお金をかけることができていません。
そのことが教育の自由を奪う要因にもなっています。

わが子だけでなく、子どもたちは社会の財物(たからもの)

──自由が奪われることで、どの学校でも同じようなカリキュラムが用意され、個性のない、与えられる一方の教育が施されている可能性があるのでしょうか。

梶取
そうですね。本来、教育はもっと自由であるべきです。
そのためには米国のような寄付文化も必要になってくるかと思います。

社会全体が、子どもは天からの「授かり物」という意識を持って、自分の子どもだけでなく「自分たちの子ども」を育てていくという考えを持たなければ、20年先に必要な教育を十分に受けさせることは不可能なのではないかと思っています。

──現状は逆行しているようにも見えますね。
「わが子かわいさ」でとにかく「良い中高一貫校」に入れるために、小学校低学年のうちから進学塾に通わせているようにも思えます。

梶取
自分の子どもがかわいいのは当たり前で、それ自体が良くないということではないんです。
ただ昔から言われてきたように、「学校・家庭・地域が一体となって教育に取り組む社会」を目指していく時期に来たのかなと思います。

自分たちの近くにいる子どもたちは、自分たちの財物(たからもの)なのです。

ところが、社会全体が「短期促成栽培」を求めるようになってきているがために、数値目標ばかりに注目が集まるようになっているのです。

「短期促成栽培」を脱却し、学校は数字ではなく個性をウリに

──例えば、中高一貫校の場合は東京大学に合格した生徒の人数が50人──といったことですよね。

梶取
そうですね。人を育てるという面で教育を考えると中高一貫校での6年はとても短いです。
その間に「成果」を出そうとすると、結局は大学入試に絞られ「合格者数」になりがちです。
あるいはスポーツでどのような成績を残しているか。
それは割と、学校が宣伝しやすい「数字」ですし、保護者も判断しやすいですよね。

でも、本来教育はそんなものではなく、30年、40年経った時に、ここで学んでよかったと思われることのほうが大切です。
ある大学の入学者が50人だったと言っても、本来その大学を選び、受験し、合格するまでには1人ひとりにストーリーがあり、「こういう指導をしたから50人もの合格者を出せた」というエビデンスがあるわけではありません。「Evidence- Based Education」(エビデンスに基づく教育)ということが言われていますが、教育実践をデータで実証的に裏づけることだけでいいのでしょうか。そこに「教育とは何か」という問いかけがないと子どもたちはただのモルモットになってしまいます。

──保護者の側も、分かりやすい数字に惑わされてはいけないですね。

梶取
合格者数が減ったら、その学校に魅力を感じないのか、ということですね。

どの学校でも多かれ少なかれ受験指導、グローバル、ICTを目玉にしていて、ある意味没個性になってしまってはいます。
本来は各学校ともとても良い学校で、悪い学校などないくらいです。でも現状では個性がないので選びようがない。だからこそ毎年の合格者数が重視され、それに向かった教育が施されてしまう。

今後は各学校がもっと自信を持って、「自分の学校はこういう教育をしている」と言えるようになるといいと思います。
個性の部分を主張して、そこで評価されて選ばれるようにしていくことが、今後の課題かと思います。

第2回:「英語が話せる=グローバルに対応」ではない

「ノーベル賞や金メダルを取ること」が目標化した教育の罪

ダヴィンチ☆マスターズ(以下、──)
2020年の教育改革に向けて、教育の内容がより「実用性の高い内容になってきている」と聞きます。そのことが子どもたちにどのような影響を与えるとお考えになりますか?

梶取弘昌氏(以下、敬称略)
2015年6月8日、当時の文部科学相が全国の国立大学法人に対し、第3期中期目標・中期計画(2016~21年度)の策定にあたって教員養成系や人文・社会科学系の学部・大学院の廃止や転換に取り組むことなどを求める通知を出しました。
その後、さまざまな説明がありましたが、われわれ教育者側はすれば「役に立たないことはやらなくていいということか」と理解しました。もう『源氏物語』は読まなくていいのかと。
実際にいろいろな大学でそうした学部が縮小され、代わりに求められるようになったのが「役に立つ」実学です。いまならITが人気なので、教員として雇われるのはITの専門家ばかり。でも、5年、10年後はどうでしょう? ITがもてはやされるのは、おそらく一時ですよね。それなのにそうしたことに飛びついて、教員養成系と人文・社会科学系の学部を縮小したらどうなるのか。「その能力」しかない人たちは、時代の変化について行けるのか。

──流行の最先端を学ぶのは悪いことではありませんが、そのような学部をなくすことで、弊害がありますよね。おそらく。

梶取
大学は本来、いろんな学びの場です。大学でも役に立たないような研究はあるのです。でも実はその、「一見役に立たない」研究はすごく大事なのです。

ノーベル賞を取る方たちにしても、ノーベル賞を取るために研究してきたわけではない。いい意味でのオタクで研究が好きで好きで仕方ない。結果としてノーベル賞が取れたにすぎないのです。

ノーベル生理学・医学賞受賞者の利根川進さんが著書で「自分と同じように研究をしている人たちはいたけれど、自分が賞を取れたのは運が良かったからだ」という趣旨のことを書かれていました。これは、研究というものは方向が違っていたらそのまま続けていても結果にはつながらないものの、研究を始めた時点では成否が分からないんです。年月が経ってから「これはダメだ」と分かることも多々ある。でもそれは運なのだというわけです。

──一方で今は、「中学受験で“実績”のある学校に入る」とか、オリンピックなどでも「金メダルを取る」といったことが目標化されやすくなってもいます。

梶取
賞を取るためにとか、「〇〇のために」と目的が設定されてしまうことには違和感があります。
五輪にはさまざまな競技がありますが、その代表選手たちの目標が「金メダルを取ること」になってしまっていると、選手たちの先行きが案じられます。競技を通して自分を高めていき、自分にはこんな可能性があるんだと感じている選手たちは、その先にいい人生があるでしょう。
でも、賞や金メダルを取るためだけとなると、その目的が果たせたとたん、何もなくなってしまいます。あるいは、果たせないことで、「その先の生き方」にたどりつけなくなる。

──社会全体にそうした風潮があるように感じます。

梶取
社会の考え方として、成果を上げることがいいことで、何の成果も上がらないものはダメだという風潮は確かにありますね。

私自身は、将棋の羽生善治さんが好きなのですが、彼は他の人が言うほどタイトルにこだわっていないんですよね。彼は勝とうと思って将棋を指していない。しかも若手と対戦するときに、わざわざ若手の得意形に飛び込みます。
目先の一勝を取りに行くならもっと勝てるはずなのに、彼の目的は勝つことではなく、最先端の研究をしている若手からもっと深く学ぶことなので、そうするのです。その姿勢が素晴らしいと思います。

教育はもちろんのこと、世の中の風潮が彼の考え方に近づけばいいと思いますが、世界的に見ても、そうはなっていないんですよね

──言語教育も見直しが必要そうですね。

梶取
アジア人が堪能に英語を話すのは当然のことで、それは母語で書かれた優れた教科書がない国も珍しくなく、エリートになるためには英語が使えなければならないという環境があるからです。
そういう環境と日本を比較して、英語教育を何とかしなければならないと騒いだり、日本人の英語はダメだと悲観したりするのはおかしい話です。
現状の小学校英語を教科化するという発想は、流ちょうに話せればいい、読んだり書いたりするより現地で交渉ができるほうがいいというもので、母語で発想し、それを多言語に置き換えて自分を伝えるということが抜けています。まずは母語で論理的に考えることが先だと思います。

英語教育における「英語4技能(聞く、話す、読む、書く)」はもちろん大事な能力です。しかし、「話せないコンプレックス」の強い日本の大人たちが考えるような、読む力と書く力より話せることが優先という風潮は、今後は意味を失っていくでしょう。なにしろ自動翻訳機が高機能化していますから。
それよりは、母語である日本語でいろんなことを考えられて、それを言語化していくこと、そしてそれを英語で説明するとなった時に初めて必要になるんです。

言葉にしても、各国の言葉でしか表現できないこともあるわけです。今はインターネットの影響で、英語が世界の共通言語になっていますが、その国の文化・思想はその言語ができないと深いところは理解出来ません。いろんな国の言葉が分かるからこそ理解できる文化があるのです。だからこそ、コミュニケーションの手段ではなく、文化を知る手段として、より多くの言語が理解できたほうがいいですね。

──先生のご専門は音楽ですが、国ごとに特徴は違うのでしょうか。

グローバル=海外に出ることではない

──世界的にそうなのですね。各国が高め合うために競争するのではなく、ただ勝つために競争するような世の中というか……。

梶取
結局、内向き志向だと言えるでしょう。いろんな各国のリーダーたちが、自国の繁栄を優先するがゆえに、排他的になって、ある特定の民族を排除しようとすることさえある。それが私たちの日常にも潜んでいます。

今ではさまざまな国の方々が飲食店などで働いています。その中でそれぞれの文化の違いから様々なトラブルもあるはずです。グローバル化というのであれば異文化に対する敬意がなければいけません。
しかし私たちからみて理解できないこと、非常識なことがあったときに、私たちはそれに対し、敬意を払っているでしょうか。
自分たちがやりたくないことを他の国の人に任せ、自分は手を汚さずに生きている。そのようなことはないでしょうか。これは私自身も含めての問いかけです。

そういう差別感・優越感が、この日本社会にもあるということを理解していないと、グローバルの意味をはき違えてしまいかねません。

──グローバルと言うと、海外で仕事を得て活躍して……と思う層は多そうです。

梶取
そもそも海外に出ていくことがグローバルという意味ではありません。日本国内でもいろんな場所で、いろんな国や地域で生まれ育った、違う考えを持つ人たちが集まって暮らしていますよね。その中でどうやってうまく生きていくかということこそが、グローバルなのです。

育った環境、価値観が異なる中で生きていくのは簡単なことではありません。家族というコミュニティの最小単位の中でも、感じることがあるでしょう。口で言うほど簡単ではないのがグローバルなのです。そもそも今、グローバルについて騒いでいるのは日本くらいのもので、海外ではさまざまな国の人たちが共存しています。

考えておきたいことは、各国のリーダー達が内向き思考、自国第一主義に陥っています。これはグローバルと反対の思考です。私達が考えなければいけないことは、そのような内向き思考が私達にもあり、そのことを認めた上でグローバルをどう考えるかだと思います。

──先生のご専門は音楽ですが、国ごとに特徴は違うのでしょうか。

梶取
ベートーヴェンはドイツ人、ドビュッシーはフランス人ですが、彼らはそれぞれの言葉を話していたからこそ、素晴らしい作品を生み出したのです。
これは歌曲だけでなく言葉を伴わない器楽曲だったとしても、その国のいろんな背景があるからああいう音楽ができてくるのです。ですからこれから先、ますます文化・思想を理解するためには、英語に限らずいろんな国の言葉ができたほうがいいんです。

小さなこと、どうでもいいことに感動したい

──それこそ、多様性を学ぶためにも言語が必要ですね……。かといって、いま海外で活躍している人たちを見て、彼らをコピーしようという風潮が強まってきているのはどうなのでしょうか。

梶取
真似をするのは大事ですし、高度経済成長時代まではそれでよかったと思います。明治時代になり国が急速に変化する際は、集団である程度鍛えていくしかありませんでしたから。それができたからこそ日本は繁栄したのだと思っています。

その後、日本はアメリカを目標にしてきたのだと思います。「追いつき、追い越せ」の時代ではトップダウンで上司が言うことを部下はそのままやればよかったのですが、今は社会も変わりました。技術力では日本がアメリカをしのいでいる部分がたくさんあると思います。追いついてしまっていますよね。そのような今、社会全体は目指すべき目標を失い、その不透明感が子どもたちへの教育に現れてしまっているのです。

今の子どもたちには、「バラ色の人生」が想像できません。中高生も「僕たちは何をすればいいのだろう」と不安を口にします。大人が方向を示していないのですから当然ですよね。

経済的成長という目標を失った今、社会は、何か別のものを目指さなければいけないのです。中高一貫校からエリートを目指して大企業に入っても終身雇用も保障されていないどころか、入社した大企業が30年、40年後に存続している保障もないようなこの世の中で、生き抜いていかなければならないのですから。

そこで必要になるのが、一人一人、自分はこれが大好きだという「好きなもの」と、これなら他の人に負けないという「自信」なのです。そして、その「好きなこと」と「自信」を持ち続けることです。それが「一人一人の充実感」につながっていきます。

──ITに強いとか、英語が話せるといった「技術」ではなく、それぞれの人が夢中になれるものを持つ必要があるのですね。

梶取
そのために、教育に何が必要か、何をすればいいのかは残念ながら私も分かりません。ただ土壌をつくるのは教育関係者だけではなく、大人全員が考えなければならない課題だとはいえるでしょう。

子どもたちに安心な土壌を与えて、どんな種をまき、芽が出るか分からない中、出てきた芽を育て、伸ばせるようにするしかないのです。そして「他者と比較」するのではなく「昨日の自分と今日の自分で何が違ったのか」の比較を重ねていくことで、子ども自身が伸びていく。

この部分の価値観を変えて、昨日の自分より今日の自分はここが違う。どんなことでもいいんです。朝起きて、外の景色が清々しい、雨上がりの空気が気持ちいいなど小さなことで十分なのです。小さなこと、どうでもいいことに感動したいですね。

第3回:非認知能力を育てるハウツー本には意味がない?

大人の顔色を見て勉強するようになる子どもたち

ダヴィンチ☆マスターズ(以下、──)
学校では今後、子どもたちにどのような教育をしていくと良いのでしょうか。

梶取弘昌氏(以下、敬称略)
私自身は昨年で校長の職を退いて、地元で畑を借りて野菜を作ったり、生徒と一緒に稲作りをしたりしていますが、土に触れていると、分かってくることがあります。

例えば、畑で作る野菜の出来具合はどうやって土壌を作るか、いつ種をまくかで決まります。
畑のベテランたちは「手を掛けたら掛けただけ育つよ」と教えてくれますが、これは肥料をたくさんやればいいということではなく、ちゃんと耕して育てるという意味です。

「大根十耕」は、ダイコンをよく育てるためにはは、土を深く、ふかふかになるように耕すという意味で、しっかり耕して準備して、適切な時期に種を蒔いてあげれば勝手に育つんです。
このことは、子どもたちの教育に通じると感じました。

──手を掛けたらその分育つということでしょうか。

梶取
適切に手を掛けるという意味ですね。

野菜は肥料をあげ過ぎたら根腐れしてしまうことがありますし、野菜によっては水さえ必要ありません。それぞれ必要なものが全部違うのです。
同様に子どもも、その子にとって必要なものを理解しないままに「この宿題をやっておきなさい」と一律にやらせていると、子どもたちは大人の顔色を見て「これをやったら先生、点数をくれるの?」という勉強の仕方をするようになる。

なおかつ先生たちがそれを評価してしまうと、「やらされている勉強」を高校まで、ひどいと大学まで続けてしまう。すると、自分で考える力がつかなくなるのです。

──なるほど、子どもたちは勉強において大人の顔色を窺ってるのですね。

梶取
大人からどう評価されるかを気にする子は、反動が大きい。特に優等生は注意が必要です。
親の言うこと、先生の言うことをよく聞いて、高校の始めくらいまでは成績もトップクラスで優等生だった生徒が、ふと「ぼくはなぜ勉強しているのだろう」と悩むようになる……このタイプが一番怖いのです。

小さい頃から「何をしてるんだ」と叱られるような悪さをする子のほうが、実は安心なんですよ(笑)。

非認知能力を育てるハウツー本には意味がない?

──これだけ少子化と言われ、しかも個性の大切さが唱えられてきたのに、親になるとレールを外れることを怖がるようになります。
例えば、授業中に立ち歩くのは絶対「悪」のようにとらえられてしまうなど、「悪」を決めたがる傾向があるようにも思います。

梶取
小学校低学年であれば、黙って45分座っていられること自体、私は不思議に思います(笑)。
ただ「おとなしくしていなさい」というのは無理がありますし、立ち歩くことにしても、もしかしたら、教え方のほうに工夫が必要なのかもしれませんよね。

子どもが成長に伴い人の話を聴く力を身に付けていくことは大切ですが、そこだけに集中すると、「見てくれの行儀の良さ」ばかりに注目が集まり、そのためのハウツーだけが広がっていく。それでは意味がありません。

最近では「非認知能力」までハウツー本が出だしましたが、本来は定型的に育めるものではないはずです。

──そうなのですね。つい、ハウツー本を頼りたくなりますが……。

梶取
どの勉強でも同じですが、一つの方法論が、全ての子に合うとは言えないですよね。
本来、人はさまざまな場面で「これは良い」「これは悪い」という基準を大人から聞きながら、育つものです。

非認知能力は一般的には自制心や意欲、忍耐力などを指しますが、本来、これらを高めるためだけの授業はありません。

すべての授業、部活動、校外活動を通して子どもたちは学び育っていきますし、非認知能力もその中で高まっていきます。
子どもたち同士で意見が折り合わなかったらどうやっていこうかといったことでも、自制心や意欲、忍耐力などは育まれるものです。
学校だけでなく、家庭や地域など、子どもたちが接する大人たちすべてが子どもを育てているのです。

人と触れ合うことができない人が難しい世の中になる

──ではどのような授業であれば、非認知能力は高められるでしょう。

梶取
ゴールを先生が決めないということは一つ重要ですね。
先生たちは子どもたちを一つのレールに乗せたがるけれど、そこで得られるのは先生の達成感でしかありません。
それよりはどの授業でも、子どもたちが面白かったかどうか、ワクワクできたかです。

例えば私の専門である音楽でも、小学生にはこれは分からないだろうと狭める必要はないんです。
何年生なら四分音符を教えてなどの指導要領に従い過ぎず、子どもたちなりに感じた「面白かった」「何か退屈」といった感想を引き出すほうが大切です。

子どもたちは大人が想定するよりはるかに素晴らしい感性を持っています。
ただ表現の仕方が分からないことがあるので、困っていたらそれを教えてあげればいいのです。

──教える側はまだまだ指導要領に従ってしまいそうです。

梶取
指導要領ダメなのではなく、それを絶対視してはいけないということです。そのような柔軟性が教員に求められますし、教員自身が日々進化していかなければいけません。
専門知識の高さではなく、子どもにどうやって向き合えるのか。
AIが出てくるから仕事がなくなるという議論がありますが、そんなことはありません。
通り一遍の事しかできない人、思考が硬直している人はどんな仕事を選んでも先がないでしょう。

医師でさえ、ロボットが手術をするようになれば「名医」も必要なくなってくる。
それよりは、例えば末期がん患者とその家族に対して「数値がこうなっているので」などと話をするのではなく、「大変だよね」と声を掛けてあげられるかどうか、一人の人として触れあえるかどうかが問われます。
それができれば残るし、できなければ仕事を失うでしょう。これはいろんな職種で同じだと思うんです。

仕事がなくなることを恐れるのではなく、人と触れ合うことができない人が難しい世の中になるということを想定したほうがいいかなと思います。

──人間的魅力のある先生が、求められるようになるのですね。

梶取
そうですね。そうした先生を小学校で増やすには、待遇を大幅にアップするべきだと思います。
小学校にこそ大きな予算を付けて、魅力ある先生を採用する。そのうえで先生たちは専門性を高めていくわけです。

ただし先生たちも時間が限られています。
現在、教員免許は10年更新で免許を持たない人は教壇に立てませんが、「免許を持たない各道のプロ」に教壇に立ってもらうことも今後は必要でしょう。
プロが教壇に立つことで、リアルタイムで起きていることが学べるようになるでしょう。

成績表をなくしてしまえばいい

──他にはどのような授業の仕方をしていけばいいでしょう。

梶取
いろいろなやり方がありますが、例えば現在のように、教科で分けることが不自然だなと思っています。

音楽で「浜辺の歌」を取り上げて、「あした浜辺を さまよえば」という歌詞の「あした」はどういう意味なのかを考えれば国語の勉強になりますし、あるいはあの歌詞の情景を絵に描いてみようとすれば、あの情景には誰がいるのか、いつなのかといったことを考えるようにもなる。
音楽だけど国語の要素を取り入れながら学んでいくことで、見えてくる世界が豊かになります。

極端に言えば、私自身は成績表をなくしてしまえばいいと思っています。
教員たちは、成績を付けないと子どもたちが勉強しないのではないかと怯えますが、実は束縛から解放すると自由に発想できるようになっていきます。

学校だって、今日は本拠地となるこの学校に来るけれど、火曜日は別の学校に行く。
1週間終わったときにあの学校ではこんな経験をしたよといったことが皆で話し合える、面白いですよね。
そういう教育になれば、不必要な競争もなくなるし、風通しも良くなる。

今までの教育の概念を変えることになりますが、そこまでしないと、現状は打破できないのかなという気がしています。

第4回:子どもを見守り、気付いていない長所を褒め、伸ばす

大人の顔色を見て勉強するようになる子どもたち

ダヴィンチ☆マスターズ(以下、──)
教育現場は急には変えられなくても、親として、少しでもできることをしたいと考える方は多いと思います。今できることはありますか?

梶取弘昌氏(以下、敬称略)
子どもたちに対して、「あなたを見ているからね」と言う目線を持つことではないでしょうか。

例えば小さい子どもがジャンプする様子を「見てて!」と大人に見せれば大人は「すごいね!」と声を掛けますよね。

同様に教育でも、「見ているよ」という意思表示が子どもの安心感につながります。
放任と見守りの境目が難しい所ですが、見守るということは、声を掛けてあげることでもあります。

──声を掛けると、また、過干渉になったりしませんか。

梶取
それは見守るはずの親が、いつの間にか自分の思う方向に誘導してしまうケースですね。
世の中にはさまざまな「崖」があります。親はつい、その手前に頑丈な「柵」を用意したくなりますが、それでは子ども自身の危機察知能力は育ちません。

親は「ここから先は崖だから危ない」というラインを把握し、そのラインを子どもが越えないかどうかだけ見ていて、崖に近づき過ぎたら「危ないよ」と声を掛け、手を引っ張ってあげる。それが「見守る」ということです。

──必要な声掛けするけれど普段は見ているだけ……と。

梶取
さらにしてほしいのが、褒めること。
お子さんの良いところを20挙げて、「あなたのこういうところが素晴らしいよね」と伝えてあげてください。

ただしウソはいけません。
例えばリコーダーを吹くときに運指がめちゃめちゃなのに「指使いが素晴らしい」などと場違いなことを褒めても、子どもは分かっていますから納得しないんです。

それよりは、例えば鉛筆の持ち方がとても良ければ「あなたの鉛筆の持ち方は素晴らしい」とか、サッカーでボールを片付けるのがうまければ「片付けがサッとできて素晴らしい」とか、「そうか、自分にはそういうところがあるんだ」という、自分では褒められると思っていないことでも発見して、褒めてあげる。

大人でも、自分では気付かず、人から指摘されると、ああそうかと納得して、その部分を生かそう、伸ばそうと思いますよね。

理解できているところまで立ち返り、知識を深める教育を

──なかなか20も、長所を見つけて褒めるのは難しそうではあります。

梶取
一緒に絵を描いてみるのもいいんですよ。お父さんやお母さんが描いた絵を見せながら「この絵どう?」「この前出かけた公園で、これが見えたんだけど」と子どもに聞いてみる。
すると子どものほうから「こうじゃなかったよ」などと意見が出ますし、「俺のほうがうまいよ」と自分の絵を丁寧に完成させるかもしれません。

その時に大事なのは、「写実でなくていい」「学校や教室で褒められる絵を目指さなくていい」ということ。その子の視点が生かされていることが大事です。

例えば子どもは、ある1枚の葉が気になると、その葉だけ大きく描くことがあります。
それを見た時に「実際と違い過ぎる」と指摘するのがいいのか、「これすごいじゃない、あの葉っぱは、こんな形をしてるんだね」と感心するのがいいのか。明らかですね。

何よりも、子どもたちが見えているものと、大人から見えるものは同じではありませんから彼らにとっては絵に表したものが本物なのです。

──つい評価を気にしてしまいますが、評価を上げることよりも、感性を育むことが大事ですね。

梶取
理性で感じたことがすべてではありません。
好きなことをしている時は、あっという間に数時間が経ちますよね。

──となるとまずは、親の反応を変えることが大切なのでしょうか。

梶取
今は感性を育み、柔軟性を持たせることがなかなか難しい面があります。

情報過多の世の中ですので、インターネットで調べたことを、分かった気になって自分の「知識」として話すことができてしまう。

でも、上辺の理解ではなく、自分の腑に落ちて理解できているところまで立ち返り、知識を深めていくことが大切です。そうでないとすぐに思考停止状態に陥り、「賛成」か「反対」かだけで結論付けようとしてしまいますよね。

教育格差=経済格差に…教育システムの改革が必要

──昨今は、学びの機会を与えようとすると経済的に豊かな家庭が有利なようにも思えます。この格差は埋められるものなのでしょうか。

梶取
教育格差は経済格差がそのまま出ていますよね。
いわゆる良い大学に行くには、お金がかかるのです。行きたくても行けない子どもたちがいるわけです。

これは、個人レベルでは可決できるものではありません。
国が、すべての子どもたちが必要な教育を受けられるように対策すべきです。
ネット環境さえあれば、世界中どこでもMOOCs(ムークス)の授業を無料で受けられるわけです。

MOOCs(ムークス):2008年頃にアメリカでスタートした、インターネットを用いた大規模公開オンライン講座のこと。Massive Open Online Courseの略字。「大規模オープン・オンライン・コース」とも呼ばれる。1コースの受講者は数万~数十万人、ウェブ上で大学レベルの授業を基本無料で提供。

梶取
アメリカで始まったサービスですが、すでに日本にもJMOOCが設立されていますので、経済的に不利であっても、ネット環境さえあれば勉強する機会が得られる時代に入ってきています。

もちろん教育はFace to Faceが基本ではあるのですが、毎日必ず何時何分に学校に行かなければならないという時代ではない。
旧態依然としたシステム……もしかしたら6・3・3制も見直さなければならないのかもしれません。

──システムを見直すことから、教育格差の課題が解決していく可能性はありそうですね。

梶取
現状、日本だと高校を卒業したら大学に進学しなければ就職に不利だなどといった風潮がありますが、そもそも大学で学ぶという選択肢しかないのも不自然ですよね。

海外では高校卒業と同時に家を出て独立するように促される国もありますから、そうなると自活していくしかなく、たとえ国立大学に入学して授業料がなかったとしても、生活費は稼がなければならなくなります。

つまり、4年で卒業できる大学に8年通って卒業するという学び方もあるわけです。
社会に出れば学ぶ視点も変わってくるでしょう。

「教育」だけを改革するのではなく、「社会」も変わる必要性

──確かに、社会人になってからのほうが学びが深まるように思います。

梶取
加えて教育改革だけでなく、社会全体の考え方も変わる必要性がありますよね。

大学教育改革の話が出てきた時から申し上げてきたのですが、教育改革をどれほど進めても、社会の常識が変わらなければ何の意味もないのです。

音楽で「浜辺の歌」を取り上げて、「あした浜辺を さまよえば」という歌詞の「あした」はどういう意味なのかを考えれば国語の勉強になりますし、あるいはあの歌詞の情景を絵に描いてみようとすれば、あの情景には誰がいるのか、いつなのかといったことを考えるようにもなる。
音楽だけど国語の要素を取り入れながら学んでいくことで、見えてくる世界が豊かになります。

自分の意見を持ち、「それは違う」という発言ができるように教育しても、社会に出たとたん上司が言ったことが絶対だという「自分の意見が許容されない」世の中では意味がないのです。

──「許容」される社会でなければ、「変化」にも対応しづらくなりそうですよね。
そうなると、もはや子どもたちだけに押し付けるわけにはいきません。無理に掲げたプログラミング教育や英語教育のために、習い事を増やしても意味がないと感じました。

梶取
プログラミング教育が無駄であるとは思いませんが、小学校で必修教科にすれば論理的思考が育つというわけではないんです。
論理的思考はそもそも普段の生活の中で身に付くはずのもので、プログラミング教育と銘打ち「成果」を求めた瞬間、面白くなくなります。

ただ変わりゆく今の時代において、何が正解ということはありません。私にしても一つの考えとしてお話ししていますし、反対の意見はあってしかるべきです。

例えばプログラミング教育や英語教育だって、今の方針自体が間違いだということではなく、「実際には何をすればいいのか」「これをやることで子どもたちはどんな経験が得られるのか」という目線があればいいと思っています。

──教育において、親が果たす役割もますます変わってきそうですね。

梶取
今後は学校の先生に教育を任せるのではなく、いろんな仕事をされている皆さんだからこそできる教育を意識してみるといいのではないかと思います。

何も家庭で政治の話をしなさいというのではなく、この絵をどう思うかなど、新聞やニュースで知ったさまざまなことについて、「どう思うか」をお子さんと家で話してみること。そうした日々のコミュニケーションによって、子どもたちの論理的思考も育まれていくと思います。

終わり

 

プロフィール

梶取弘昌(かじとり・ひろまさ)
1952年東京都出身。1971年武蔵高等学校卒業。東京藝術大学声楽科卒業。1977年武蔵高等学校中学校講師。1988年武蔵高等学校中学校教諭。2006年武蔵高等学校中学教頭。2011年4月武蔵高等学校中学校の13代校長に就任(~2019年3月)。現在は東京私学教育研究所の特別調査研究会『学校づくり研究会』委員長、武蔵高等学校中学校芸術科講師を務める。声楽家としても演奏活動を行っている。専門はドイツリートだが、現在ではポピュラー、ミュージカルなど幅広く演奏している。また楊名時太極拳を学んでいて現在は準師範、師範をめざして修行中。自宅近くに畑を借り野菜をつくっている。また生徒と一緒に稲作にも挑戦。「土づくり」が作物にとって重要であるように、教育においても「土壌づくり」が最も大切であると感じている。

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