小学校でしか学べない! 人生を切り開く言葉のチカラARTICLE

子どもの自律・自立を育む創造的な親子関係

2019年11月24日に開催された第19回ダヴィンチマスターズ(場所:学習院女子大学)では、学びの創造塾・塾長の奥山勇太郎先生に「子どもの自律・自立を育む創造的な親子関係」と題した講演を開催しました。

申し込み開始から楽しみにして下さっている声を多数お寄せいただき、たくさんの方にお申込みいただきました。

小学校教育の現場で長年培われた臨場感あふれるお話に、笑いあり、涙ありのあっという間の70分間でした。

その内容をお届けします。

なぜ、今「自律・自立」なのか

昨今の教育界では、さかんに「自律・自立」と騒がれています。
これは、人生や社会を切り開くための子どもたちの資質・能力が展開されていくことを、文部科学省やOECD(経済協力開発機構)が重要視しているためです。

OECDは、経済を中心とした諸問題を国際連携で解決していくための機関ですが、その教育部門で、「グローバリズムを担う人材育成」というものを掲げているんですね。

その一環で、国際的な学力テストである「PISA (OECD生徒の学習到達度調査)」を3年ごとに実施しています。

国際的に求められている「自律・自立」とは

日本人はこのPISAのランクの上下に敏感で、ちょっとでも下がると「何をやってるんだ!」と叩かれてしまうのですが、実はOECDが重要視しているは、テストの点数ではありません。

「キー・コンピテンシー(主要能力)」と呼ばれる、以下の3つの能力の重要性を強調しています。

1.社会・文化的、技術的ツールを相互作用的に活用する能力(個人と社会との相互関係)

2.多様な社会グループにおける人間関係形成能力(自己と他者との相互関係)

3.自律的に行動する能力 (個人の自律性と主体性)

私はこれを、「社会性を持って」「双方向的に」「権利を守る」と要約しています。

嫌われた「ゆとり教育」

2002年から「総合的な学習の時間」が実施されました。

いわゆる「ゆとり教育」と呼ばれていますが、大切な算数や理科の時間を数十時間減らし、6年生が年間105時間も使って何をするんだ?と、マスコミを中心に世間が猛然と反発しました。

しかし、この「ゆとり教育」の内容をよく読むと、OECDが目指していること、そのものなのです。

自分で考えて、自ら課題を発見し、互いに協力しながら、相互作用的に課題を解決していこうというコンセプトは、決して悪いものではない。

しかし、マスコミをはじめ、なぜか非常に揚げ足取り的な批判が多かったのも事実です。

「ゆとり教育」で伝えたかった本当のこと

例えば、「円周率の3.14を3にする」という話は、誰も言っていないにもかかわらず、それが広がってしまった。

円周率の学習で伝えたかったことは、すぐに公式を当てはめて計算するのではなく、自分で「だいたいいくらか」という見通しや予想を持って、ものごとにあたったり、課題や仮説を創り出していこうという考え方です。

3倍くらいの目安で予測して、アタリをつけるという学習方法も大切だよね、という含みを持たせたところだったが、極論で「円周率を3で教えていいのか」ということになってしまった。

誤解された「ゆとり教育」の悲劇

また、2006年調査のPISA*の結果で、日本の高校生のランクが大幅に下がったことで、「ゆとり教育のせいだ!」と言われてしまったんですね。

しかし、ゆとりは2002年から始まっているので、まだ結果は出ていない時期なのです。

*注)PISA 経済協力開発機構(OECD)により、3年ごとに行われている国際学習到達度調査(PISA:Programme for International Student Assessment)のこと。加盟国を中心に3年ごとに実施される15歳児の学習到達度調査。主に読解力・数学的リテラシー・科学的リテラシーなどを測定する。

つまり、「総合的な学習」を本格的に小学校で学んだ高校生はまだいないのに、「ゆとり教育の高校生の学力が下がった」と批判のネタになったのは、非常に残念なことでした。

そして、2011年度にゆとり教育が廃止になりました。

その後ある種の反動で、小学校から英語を教え始めることになり、道徳も教科にして、プログラミングもやらせよう、という流れになっています。

でも、その時間をどう捻出するかは、2020年から始める指導要領には記載されていません。

各学校が独自で捻出しないといけないので、現場は四苦八苦考えているところです。

新たなことを足すばかりで、小学校教育の現場は、余裕がない状態になっています。

「カッコイイ」の基準の違いを知ることの大切さ

小学1年生で、丁寧に教えなければならない重要な概念に、「基準量」というものがあります。

基準量にまつわることが、実生活ではものすごくいっぱいあるのです。

例えば、「カッコイイ」という感覚は、人によって基準が違います。

自分では意識していないことなので、みんなも同じだと思っていたら、実はものすごく違っていた、ということは、意外にたくさんありますよね。

あるいは、「基準変換」という概念。

立場が変わると基準が変化するということですが、立場を変えて物を見るという経験が、今の子どもたちは非常に少ないので、そういう考え方ができなくなっている子が多いのです。

算数を通して学ぶ「知の技法」

例えば、1年生の問題。

“Aさんはバス停に並んでいて、前から7番目、後ろから6番目でした。

バス停には何人並んでいるでしょう?”

この問題では、全員の人数という「集合数」について問うてますが、もう一つ重要な数の概念として、「順序数」についても言及しています。

ここでは、数え始める「基準」があるということを、1年生に明確に伝える必要があるんですね。

どこから数えるか、という基準の違いで、答えが変わることの面白さを、算数を通して伝えられるわけです。

これが、ものごとを考える時のとても大切な「知の技法」になるのです。

思考を支える「平明な言葉」とは

ところが今の先生は、計算技能をさせることに一生懸命なんです。

計算も大事ですが、そこに潜む意味を自分で見つけ出すことが、小学生にとってはもっと大切になります。

例えば、「基準」という言葉や概念ではなく、「〇〇より」とか「〇〇から」という簡単な言葉に置き換えて、考えて表現できるかどうかです。

単に正しい答えを出すだけではなく、自分の言葉で表現できる子どもを育てたいのです。

そのためには、思考を組み立てるための「平明な言葉」の存在に、着目する必要があります。

親子の対話の中でも、このような言葉のやりとり重要になります。

こういう時間が、のちのち、ボディーブローのように効いてくるんです。

中学校に行くまでの「土俵づくり」

例えば、小学校の理科教育と、中高の科学教育では、決定的な違いがあります。
それを見落とすと、あとで中高に行ってから子どもたちが苦労するのです。

本来、小学校の理科は、概念を習得する前の土壌づくりです。

例えば、密度や質量、重力、圧力という概念を、本格的に学ぶのは中学校からでいいのです。でも、今は小学校からやっているんですよね。

特に私立に多いですが、受験対策で先取りで教えると親が喜ぶだろうということらしいですが、わたしは「ちょっと待ってくれ!」と言いたい。

本格概念を習得する前の土壌づくりとしての小学校での教育は、五感の体験を通した教育活動です。

そこから育まれる言葉が、ものすごく大切なのです。

五感を味わうことの重要性

例えば、小学校の指導要領には、「押す力と押される力を味わう」と書かれています。そして、圧力に関して、こんな会話があります。

「ぐーっと押したら、他の場所からむにゅ~っと出て来た!」

「わたし、空気を抱きしめた!」

「どうだった?」

「あたたかかった!」

これは、空気を風船に詰め込んで押したんですね。

それを抱きしめたら、体温が伝わってあたたかかった、と。

子どもたちのこのような実感があって、はじめて、「くうきは、なにかあるんだね。」と伝える。

小学校では、空気はこの、「むにゅ~」だけでいいんです。

むしろ、この五感を大切にしないといけないんです。

「体感」がなければ「概念」が理解できない

中学校では、これを「圧力」という概念として教えます。

難しい言葉に出会って立ち向かうためには、「むにゅ~」と押し返してくることとか、ずっと抑えてると、空気があったかくなるというような、体験が必要です。

この小学校の頃にやった心象化された言葉があるかどうかが大事なんです。

そういった言葉の数々が、概念のラベルを貼る前にたくさん蓄積されていると、
子どもは易しい言葉で言い換えができるようになる。

その言い換えができた時にこそ、学力が本物になる。

ですから、中学校の知識を小学校で詰め込むよりも、焦らずにもっと体験を通して心象化した言葉を、いっぱい身につけておくことの方が、ずっと重要なのです。

平明な言葉で語れる出会いと発見を、大切にしないといけません。

生の声と生の言葉が、後に生きる

語り継ぐ言葉には、宿る力があります。

「わらぐつの中の神様」※1や「かさじぞう」※2、あるいは以前「トイレの神様」※3という歌が流行りました。

これらに通じている日本人に宿っている真心みたいなものが、教育の中にはいっぱいあります。これらを、お父さん、お母さんの生の声、生の言葉を通して語り継ぐことがとても大事です。

「まんが日本昔ばなし」のカセットテープを聞かせるのとは、まったく違う作用があるんです。

統計には数字として出て来なくても、その子の心の財産として、のちに偉大な力を発揮します。

※1 わらぐつの中の神様 作家杉みきこによる童話。小学生の国語教材でおなじみの物語。

※2 かさじぞう 日本のおとぎ話。親切を施した無欲な善行者に思いがけない福運が謝礼としてもたらされるという話。

※3 トイレの神様 シンガーソングライター植村花菜によるJ-POP曲。2010年に大ヒットした。

子どもにもある日本人特有の世界観

例えば、「菜の花や 月は東に 日は西に」※という有名な俳句があります。

※1774年に詠まれた 与謝蕪村 による俳句

子どもたちに、「これを読んでいる作者はどこにいるんだろうね?」と尋ねると、

「月は満月で東にあるんだと思います」

「太陽はこれから沈もうとしてるんだと思います」

「月はこれから上がって行くんだと思います」

「その真ん中の広大な空間に菜の花畑があるんじゃないの」

という意見が出てきます。

「じゃあ、作者はどこにいるんだろうね」と聞くと、

「菜の花畑の中に1人でポツンといるんだ」とか、「丘の上にのぼって、その広大な風景を見ているに違いない」とか、それぞれに言います。

つまり、この風景を、一人の人間の心の目で、巨大に広げて見ているわけです。

これは、日本人独特の世界観なんですね。

ものすごく偉大な自然と、ちっぽけな個の人間のありようの対比です。

そして、その人間の心の中には、宇宙にも勝るような思いを描くことができるという偉大さを、子どもたちも俳句から受け取っている。

世界に通じる日本人の視点・能力

この日本のものの見方は、世界的な科学者の視点にも相通じると思います。

例えば、リンゴの木があって、そこからリンゴが落ちた。

その小さな出来事から、万有引力が導き出されるには、自分が地面からぐーっと宇宙の彼方に行って、地球があって、木があって、それらがお互いに引き合うという視点が必要です。

自然の中のほんのわずかに切り取ったものの中に、普遍的なものを見い出す日本人独特のものの考え方や感動の装置は、世界に通じる素晴らしい能力だと思います。

素晴らしい賞をもらうような人たちは、日常の中や、道端に落ちている何気ないところからアイデアを得たりしていることが多いとよく聞きますよね。

ロータリーエンジンの独特な金属素材を作り上げたのは、自動車のマツダですが、世界に脚光を浴びる素材を作ってしまう日本人のすごさは、些細なところにしっかりとこだわって、そこから大きな世界観を得てしまうということです。

このような日本人の得意な分野を、教育の中で一生懸命伝えていかなければならないと考えています。

親子二人三脚で学べる限られた時間

今わたしは、子ども科学センターで、「当たり前の中のありがたさ」ということを伝えています。

例えば、日常の中でふっと、「これ面白い」と思えるものを見つける能力を、身につけて欲しいと思っているんです。

毎週土日に「ひらめき工房」で親子を対象に体験をしてもらっていますが、そこで気づいたことは、お父さんお母さんが「へえー!これは面白い!」と言ってくれると、子どもは面白くなってくるんです。

ところが、子どもがやっている横で、親がスマホをいじったり、本を読んでいると、子どもが感動しない。

小学6年までは、親子で一緒に学び、体験が理想です。

親子で共に学べる二人三脚の時期は、限られているんですね。

感動し合って、そこで育み紡がれる言葉は、とても平易な言葉であっても、心象化してずーっと記憶に残る。

それが一番、得難い財産だと思います。

心象化した言葉がたくさんあるということが、その後の人生を深く支えていく。

もちろん、15、16歳でも遅くはないですが、12歳までの心も体も柔らかな時代に、親子で共に学んで行くことが、とても大切だと思っています。

プロフィール


奥山勇太郎(学びの創造塾・塾長)
神奈川県内の小学校で31年教職を経験。その間、総合的な学習を始めとした各教科の体験学習プログラムを開発し続け、神奈川県と文科省より優秀教員の表彰を受ける。秋山仁理事長の体験型科学教育研究所にて全国の市町村の教育委員会や学校と提携し教員研修と研究授業を100以上手がける。一方、学びの創造塾を立ち上げ、日本の教員の指導力向上に努めている。現在、東京都渋谷区子ども科学センターのハチラボにて楽しい学びのプログラムづくりも実践している。

 

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